夏目漱石の「私の個人主義」を読み返しています。この本の前半は明治40年代の漱石の講演集の構成になっています。
読みすすめると、明治時代終盤の状況が、現代のグロバール化の波に呑まれつつある日本の状況とよく似ているのに驚きます。
明治維新・文明開化という世の流れで、人々が物質的にそれ以前より豊かになった分、幸せを感じるようになったかというとそうでもなく、
みんなが“より良いもの”を得ようとして競争が激化していると嘆いているのです。
『かく積極消極両方面の競争が激しくなるのが開化の趨勢だとすれば、吾々はながい時日のうちに種々の工夫を凝らし知恵を絞って
今日まで発展してきたようなものの、生活の吾人の内生に与える心理的苦痛から論ずれば今も五十年前もまたは百年前も、
苦しさ加減の程度は別に変わりがないかも知れないと思うのです。それだからこれくらい労力を節減する器械が整った今日でも、
また活力を自由に使い得る娯楽の途が備わった今日でも生存の苦痛は存外切なるものであるいは非常という形容詞を冠らしても
然るべき程度かも知れない。(略)
これが開化の産んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります。』
(講演:現代日本の開花 より)
また、別な講演では、急激に変化していく時代についていけない社会のシステムへの批判をしています。
『現今日本の社会状態というものはどうかと考えてみると目下非常な勢いで変わりつつある。(略)
瞬時の休息なく運転しつつ進んでいる。だから今の社会状態と、二十年前、三十年前の社会状態とは、大変趣が違っている。
違っているからして、我々の内面生活も違っている。既に内面生活が違っているとすれば、それを統一する形式というのも、
自然ズレてこなければならない。もしその形式をズラさないで、元の儘に据えて置いて、そうしてどこまでも
その中に我々のこの変化しつつある生活の内容を押込めようとするならば失敗するのは眼に見えている。(略)
要するにかくのごとき社会を総べる形式というものはどうしても変えなければ社会が動いていかない。(略)
内容に変化も注意もなく頓着もなく、一定不変の型を立てて、そうしてその型はただ在来あるからという意味で、
またその型を自分が好いているというだけで、そうして傍観者たる学者のような態度を以て、相手の生活内容に
自分が触れることなしに推して行ったら危ない。』
(講演:中身と形式 より)